LOGINそれは、ずっと胸の底にあった言葉だったのだろう。 口にした瞬間、自分でもそれが本当の核心なのだと分かった。「知っていたら」 「……」 「私は、あんなふうに……っ」 「……」 「ただ黙って削られていくだけじゃ、なかった……!」 嗚咽でうまく繋がらない。 けれど、言葉は止まらなかった。「知っていたら、夜会のあとで、何も言わずに一人で寝室へ戻らなかった……!」 「……」 「熱を出した朝に、来てくれないことを“当然”だと思わなかった……!」 「……」 「食べられない日も、ただ笑ってごまかしたりしなかった……!」 「……」 「お義母様に削られても、実家に押されても、私……っ」 「……」 「私、もう少し違う生き方ができた……!」 最後の一言は、もうほとんど泣き声だった。 知っていたら、生き方が変わっていた。 それは、単に気持ちの話ではない。 自尊心の持ち方。 助けの求め方。 耐え方。 怒り方。 絶望の深さ。 全部が違っていたかもしれない。 愛されていないと思いながら生きるのと、言葉にされなくても愛はあったのだと知って生きるのでは、同じ十年でも重さが違う。 それなら、あの夜の立ち位置も、あの選び方も、あの死に方ですら、変わっていたかもしれない。 それを今さら知ることの、どれほど残酷なことか。 セドリックは一歩も動かなかった。 近づいてこない。 触れようともしない。 慰めも差し込まない。 前なら、その距離にまた怒ったかもしれない。 けれど今は、それがせめてもの礼儀だと分かった。 今ここで触れられたら、きっと本当に壊れてしまう。「……ああ」 やがて、ひどく低い声が落ちた。「そうだ」 「……」 「君の生き方を変えてしまうはずの言葉だった」 「……」 「それを、私は与えなかった」 「……」 「そのことを、死んでから知った」 その“死んでから”に、また胸が痛む。 あなたは私が死んでから知った。 私は死ぬまで知らなかった。 その差が、どうしようもなく悲しい。「だから許さない」 涙に濡れたまま、リリアーナは言った。「……」 「愛していたなんて」 「……」 「そんなこと、今さら言われて、簡単に優しくなれるわけない」 「分かっている」 「私の十年は、あな
その問いが出た瞬間、セドリックの目がわずかに動いた。 逃げたいのではない。 だが、そこがいちばん深い傷なのだと分かる反応だった。 彼はしばらく黙っていた。 その沈黙の長さに、リリアーナの胸はまた少し冷える。 やっぱり言わないのか。 結局そこだけは、また曖昧にするのか。 そう思いかけた時だった。「最初からだ」 低い声が、唐突なくらいはっきりと落ちた。 最初から。 リリアーナは一瞬、意味が分からなかった。 分からなかったというより、分かってしまうのが怖くて、頭がわざと遅れた。「……何が」 「君を愛していた」 その一言で、部屋の空気が変わった。 外の剪定鋏の音も、窓辺の光も、炭火鉢のかすかな熱も、全部がひどく遠くなる。耳の奥が一瞬だけ白くなったような感覚。 愛していた。 前世で。 最初から。 その言葉は甘くなどなかった。 むしろ、残酷な刃そのものだった。 リリアーナの手が、膝の上で強く組まれる。爪が手袋越しに食い込む。喉の奥が急に焼けるように熱くなった。「……やめて」 声は、思ったよりずっと弱かった。 やめて。 そう言ったのに、彼は止まらなかった。「初めて会った時から」 「やめて」 「婚約が決まるより前から」 「やめてって言ってるでしょう!」 ほとんど叫びに近い声が出た。 リリアーナは自分でも驚いた。 こんなにすぐ感情があふれるとは思わなかった。 セドリックはそこでようやく口をつぐんだ。 けれど目は逸らさない。 そのことが、余計に残酷だった。「……そんなこと」 唇が震える。 胸の奥が、怒りと悲しみで一度に膨らむ。 どうしてそんなことを言うの。 今さら。 今、ここで。「そんなこと、聞きたくなかった」 嘘だった。 聞きたくなかったわけではない。 知りたかった。 でも知ったら壊れると分かっていたから、聞きたくないふりをしていただけだ。 セドリックは静かに言った。「だが、言わなければならないと思った」 「なぜ」 「昨夜、止められたからだ」 「……」 「前世で最初から愛していたと」 「……」 胸が、ひどく痛い。 その“最初から”が、思っていた以上に鋭いからだ。 最初から。 なら、あの十年は何だったの。 何を見てい
夜が明けても、客間の空気は少しも軽くならなかった。 前夜、セドリックが去ったあと、リリアーナは一度も深く眠れなかった。目を閉じれば、彼の声が耳の奥に残る。 君が死んだ夜。 全部、壊した。 私の沈黙が君を殺した。 それらの言葉は鋭いのに、叫びではなく、ひどく静かだった。静かだからこそ逃げ場がない。怒鳴られていたなら、まだ反発だけで済んだかもしれない。けれど彼の告白は、まるで凍った刃をゆっくりと胸へ差し入れられるみたいに、少しずつ、確実に痛かった。 窓の外は薄い朝だった。侯爵邸の庭にはまだ朝露が残り、剪定された枝先が白い光を鈍く返している。風は弱い。けれど、窓ガラスの向こうに広がる景色は静かすぎて、かえって現実感がなかった。 寝台の上で身を起こす。掛布の内側は温かいのに、身体の中心だけがひどく冷えている。目元は熱を持って重く、喉の奥は乾いていた。泣いたつもりはない。前夜はちゃんと泣いた。声も少し出した。なのに涙は足りなかったのだろう。今朝も目の奥がじくじくと痛む。「お嬢様」 エマが、いつもより静かな足取りで入ってくる。手には薄いお茶と、小さく切ったパン、それから薬湯の入ったカップ。「少しでも召し上がれそうですか」 「……分からない」 「分からなくても、ひと口だけでも」 そう言って盆を置く気遣いがありがたかった。 何も聞かない。 昨夜、何を話したのかも、どれほど泣いたのかも、踏み込まずにただ主人の体を気にする。そういうやさしさに、前世の自分は何度支えられただろう。 リリアーナはカップを手に取った。薬草の匂いがする。ミントと、少しだけ蜂蜜。温かさが指へ伝わり、ようやく自分の体がここにあるのだと分かる。「侯爵様が」 「……」 その名を聞いた瞬間、心臓が小さく跳ねた。「お話を、と」 「今?」 「はい。お加減が許すなら、ですが」 「……」 来ると思っていた。 昨夜で終わるはずがないことも分かっていた。 あれだけ言って、あれだけ聞いて、なお中途半端なまま引いたのだ。続きがないはずがない。 なのに、いざその時が来ると、胸の奥がきつく縮む。「断っても、また来るでしょうね」 「……はい」 エマは正直だった。 今のセドリックなら、そうだろう。 前世なら一歩引いた場所で沈黙してい
「だったら、どうして」 気づけば声が出ていた。 低く押さえたつもりだったのに、途中から抑えきれなくなる。「どうして、何も言わなかったの」「……」「分かっていたのよね」「……ああ」「私が一人だったことも」「……」「熱を出しても、夜会のあとも、食べられない日も、全部」「……ああ」「分かっていたのに!」 最後の一音で、声が震えた。 涙が落ちる前に、視界が歪む。 こんなふうに泣きたくなかったのに。 怒っていたかったのに。 でも、怒りと悲しみが一緒に来ると、人はこんなにも簡単に声を壊すのだと、今さら知る。「分かっていて、見ていて、死んでから全部壊したって、それで何になるのよ」「……」「私は、あの時、生きてほしかったの」「……」「死んだあとで真相を暴かれたって、嬉しいわけないでしょう!」「……」「欲しかったのは、あの時のあなたの言葉だったのに!」 涙が一筋、頬を伝った。 その熱さが、自分でも情けなかった。 泣いたからといって、今さら何が変わる。 でも止まらない。 怒っている。 悲しい。 悔しい。 そして何より、彼が本当に知っていたと分かったことが、あまりに痛かった。 セドリックは動かなかった。 座ったまま、ただその怒りを受けていた。 言い訳しない。 遮らない。 それが余計に腹立たしい。 少しは否定してくれればいいのに。 そうすれば、もっと簡単に責められるのに。「私、あなたを恨んでいたわ」 嗚咽を噛み殺しながら、リリアーナは言った。「冷たい人だって。 私を愛していないって。 そう思うことでしか、自分を保てなかった」「……」「でも今は、もっとひどい」「……」「愛していたのかもしれないって、そんなことまで考えさせられる」「……」「それが一番、残酷なのよ」 セドリックの喉が小さく動く。 ようやく、彼の顔に感情のひびが入った。 痛み。 苦さ。 何より、自分が今、彼女にそれを言わせているという自覚。「……愛していた」 その声は、ほとんど掠れていた。「最初から」「やめて」 即座にそう言った。 その言葉は、今は毒にしかならない。「今さら、そんなこと言わないで」「だが」「やめて!」 自分でも驚くほど強い声が出た。 胸が痛い。 息が乱れる。 でも、そこだけは今聞き
「どうして黙っていたの」 「言えば信じると思ったか」 「思わない」 「だからだ」 短い答え。 だがそこにある疲れは深かった。「言葉にした瞬間、君はもっと私から離れると思った」 「……」 「それに、私はまず、確かめなければならなかった」 「何を」 「君が本当に生きていることを」 その言葉に、胸の奥へ冷たいものが落ちる。 ぞっとするほど重いのに、なぜかすぐには否定できなかった。 彼は前世で自分の死を見たのだ。 その瞬間を知っている。 そして巻き戻った今、最初に会った時のあの目。 あれは演技ではなかったのだと、今さら思い知る。 けれど、それで怒りが消えるわけではない。「……それで?」 「……」 「生きていると分かったあとで、何をするつもりだったの」 「今度こそ」 「今度こそ、何」 「失わせないつもりだった」 リリアーナは息を止めた。 失わせない。 その言い方は、あまりにも他人行儀で、あまりにも本音を隠している。 やはりこの男は、肝心なところで言葉をずらす。「またそうやって」 「何」 「主語をぼかすのね」 「……」 「失わせない、じゃなくて、私を失いたくない、でしょう」 セドリックの目が、わずかに揺れた。 それだけで十分だった。 彼はやはり、まだ本音の輪郭を言い切ることに慣れていない。 リリアーナは寝台の縁を掴んだ。 今夜はもう、曖昧なところで止まりたくなかった。「聞かせて」 「……」 「あなたが見たものを」 「リリアーナ」 「今さら優しくしないで」 「優しくしているつもりはない」 「なら、なおさらちゃんと話して」 その言葉に、セドリックは長く沈黙した。 拒んでいるわけではない。 たぶん、どこから言えばいいのかを探している。 あるいは、口にした瞬間に本当に現実になることを、自分でも恐れているのかもしれない。 やがて彼は、部屋の中央に置かれた椅子へゆっくり腰を下ろした。 寝台の正面。 距離はある。 でも、逃げない位置だった。「……君が死んだ夜」 低い声が落ちる。 その一音だけで、リリアーナの背筋が冷えた。「私は、間に合わなかった」 「……」 「正確には、間に合ったと思った」 「……」 「まだ温かかった。息も、完全には止まっ
その夜、リリアーナは侯爵邸の客間で、ほとんど眠れなかった。 眠れない理由はいくつもあった。 襲撃のあとで身体がまだ興奮を引きずっていること。 王都へ戻る途中の馬車で、何度も短く揺れた時の衝撃がまだ骨の奥に残っていること。 知らぬ間に握りしめていた指先が、今も少し熱を持っていること。 そして何より、あの人も前世の記憶を持っていると、もう疑いでは済まないところまで知ってしまったこと。 暖炉の火は小さく入っていた。侯爵邸の客間らしく、布も寝台も申し分なく整えられている。窓には厚いカーテンが引かれ、夜気はほとんど遮られている。女医が置いていった薬湯の匂いがまだ薄く残っていて、煎じた草の青さと蜂蜜の甘さが混ざっていた。 完璧だった。 部屋は何も悪くない。 むしろ心身を休めるにはこれ以上ないほど整っている。 なのに、リリアーナの胸の内だけが、ぐちゃぐちゃに乱れていた。 同じ夢を見る人。 さっき、自分はそう思った。 同じ悪夢を知っている人。 自分が死ぬところを見て、その後も生き残ってしまった人。 でもその事実は、慰めにはならない。 少なくとも今は、少しも。 彼も知っていた。 前世の自分の孤独を。 熱を出した朝も、夜会のあとも、義母に削られていたことも、実家の打算も、たぶん全部。 知っていて、沈黙した。 そして、自分が死んだあとで初めて、やり直したいと思っている。 胸の奥へ浮かぶのは、悲しみだけではなかった。 怒りだ。 どうしようもなく、濁った怒り。 知っていたなら、なぜ。 見ていたなら、なぜ。 死ぬまで、何も言わなかったの。 寝台の上で目を閉じても、眠気はまるでこなかった。 あの沈黙。 あの目。 「毎日、そう思っていた」と掠れた声で言った時の、ひどく静かな顔。 怒鳴りたい。 泣きたくない。 逃げたい。 でも、逃げたらたぶんもう、一生この問いを抱えたままになる。 知りたいのだと、認めるしかなかった。 どうしてあの時、言わなかったのか。 何をどこまで知っていて、それでも何もしなかったのか。 自分が死んだあと、彼は何を見たのか。 そこまで考えた時、扉の外で気配がした。 遅い時間だ。 使用人なら、もっとはっきりノックをする。 エマなら遠慮のある間
呼吸が浅くなる。「お嬢様、本当にお加減が……」 「エマ」 顔を上げる。エマは心配そうに眉を寄せていた。何も知らない目だ。この子はまだ、侯爵家の冷たさも、あの結婚がどういうものになるかも知らない。何も知らないまま、数日後には笑って見送るのだ。どうかお幸せにと。 その純粋さが、ひどく痛かった。「婚約調印は……明後日ではなく、四日後だったわね」 「はい。旦那様も奥様も、支度に慌ただしくしておられます。お嬢様のお支度の最終確認も本日中に、と仰っていて」 「そう」 やめなければ。 その言葉が、驚くほどはっきり胸の中に落ちた。 やめなければ、また同じになる。 同じ朝を迎え、同じ家へ
窓辺の椅子。白木の化粧台。淡い花柄の壁紙。小さな暖炉。磨かれた床板。壁際に置かれた、母が選んだと自慢していた陶器の花瓶。 ここは。 ここは、エヴェルシア伯爵家の、未婚の令嬢だった頃の自室だった。「……エマ?」 声を出した瞬間、自分で息を呑んだ。 高い。若い。喉を使うたびに微かに震えるその声は、侯爵夫人として十年を過ごした女のそれではなく、もっと柔らかく、まだ世間に擦り切れていない頃の声だった。 ベッド脇に立つ侍女が、ほっとしたように眉を緩める。「はい、お嬢様。お目覚めでございますか。少しうなされていらっしゃいましたので、起こすのが遅れました」 エマ。 栗色の髪をきっちりま
最初に戻ってきたのは、痛みではなく、冷たさだった。 骨の奥へ、針のように細く、しかし容赦なく差し込んでくる冬の冷たさ。肌の表面ではなく、血の流れそのものが凍っていくような冷えだった。指先はとうに感覚を失っていたはずなのに、なぜか唇だけがひどく寒かった。息を吸おうとしても胸がひしゃげたように動かず、喉の奥では鉄の味がした。鼻先を掠めていくのは、夜気に濡れた石畳の匂いと、花壇の土の湿った匂いと、そして、濃く、温かく、気持ちが悪いほど甘い、自分の血の匂い。 ああ、死ぬのだ。 その時のリリアーナは、驚くほど静かにそう思っていた。 怖くないわけではなかった。怖いに決まっている。まだ二十九だっ
リリアーナ・エヴェルシア年齢:20歳スタート身分:エヴェルシア伯爵家長女外見:蜂蜜色の長い金髪、柔らかな翡翠色の瞳。白い肌に華奢な体つき。儚げな美貌だが、目の奥には芯の強さが宿る。淡いピンクや生成りのドレスがよく似合う。性格:穏やかで礼儀正しいが、ただ耐えるだけの女性ではない。追い詰められるほど静かに覚悟を固めるタイプ。人の悪意にも鈍くはなく、見て見ぬふりをしてきただけ。長所:忍耐力、気配り、家政と帳簿の管理能力、薬草知識、社交の場での観察眼など。短所:一度情をかけた相手を簡単には切れない。自分の痛みを後回しにしやすい。セドリック・ヴァレンティア侯爵年齢:27歳スタート身分







